科学か非科学か
かつて心理学を学びたての私は、
「心理学は科学だ」ということに強烈に惹かれていました。
心理療法の中でも、とくに私が学んでいた認知行動療法は、
科学的知見(研究での実証)に基づいて、「たしかに効果のある技法」として広まった治療法でした。
またその考え方自体も、非常に合理的で、
目に見える「行動」に焦点をあてるという視点が、とても自分の思考にマッチしていて、
大学の授業ではじめて聞いた時から、まっすぐに惹かれたことをよく覚えています。
そんななかで進学した大学院で、新世代の認知行動療法として、
「マインドフルネス」という言葉をよく耳にするようになったとき、
これは私の知っている科学的な心理療法ではない!となぜか批判的な気持ちが湧いたのです。
もちろん今となっては、非科学だとは思っていないわけですが、
マインドフルネスは、アジアの仏教(とくに禅宗)にルーツをもつ瞑想が基盤となったもので、
「今の瞬間の「現実」に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、
それに対する思考や感情には囚われないでいる心の持ち方、存在の在り様」と説明されていましたので、
まさに宗教であって、イコール科学ではないと、若かりし私は思っていたわけです。
反抗期からのアイデンティティの確立
じつは私、たまたま母の実家が禅宗のお寺でした。
小さいころからお寺が身近にあり、
瞑想や坐禅がどういうものか叔父から話を聴いたりして育ちました。
いま思えば、そんな私のちいさな反抗だったのかもしれません。
「心理学」という自分の科学的な世界をようやく切り拓きはじめたときに、
突如としてアイデンティティを崩されたような。そんな状態だったのかもしれません。
これを打破したのは、アメリカ心身医学会での出会いでした。
ずいぶん前のことですが、まだマインドフルネスが今ほど一般の書籍化などもされていない時代に、
学会の中で、マインドフルネスのワークショップが開催されていました。
参加していた10名くらいで円になって自己紹介をしなければならなかったのですが、
そのときに、ワークショップに参加した理由として、実家がお寺であることを初めて話しました。
反抗期だった私は、日本の学会等でこの話をしていませんでしたので、
一緒に参加した日本人の先生もとても驚かれていましたが、
何より講師の先生が、
「マインドフルネスは禅がルーツなんだ!あなたは私の師だ!すべてを教えて欲しい!」
と大変な熱量で、私に語りかけてくださったのです。
このとき、英語力も宗教の知識もつたないものだった私は、
禅と心理学のつながりについて、
自分が幼少期から学んできたはずのこと、たしかに感じてきたはずのことを、
上手く言語化できず、とても悔しい思いをしました。
それと同時に何かが浄化され、これを伝えていかなくてはと、
はっきりとした使命感のようなものを自覚したのでした。
反抗期は終わりました(笑)。
学問の境界を越えて
科学と非科学、宗教学と心理学、そんな枠組みにとらわれていると、
自分の思考がどんどん小さくなってしまうと考えているいま、
学問の境界を越えて、すべてを学び、吸収することを楽しんでいます。
たとえば、相変わらずプチ反抗期なわたし、子どもたちはカトリック系の学校に通っています。
新たな宗教に触れ、神父様の教えを通して、感じ、考えています。
そしてこれは以前から感じていたことなのですが、
私がこころから惹かれる心理臨床家と宗教家は、驚くほど共通しているのです。
話す内容とか、語り掛け方とか、そういうことではなくて、
ひとをまるごとすっぽり受け止める、4次元ポケットのような懐(ふところ)の大きさと、
すべてのひとの心をつかむ、絶妙にウィットに富んだ対話のはこび方。
これが「達観」ということなのでしょうか。
心理臨床家も、なにかの線を越えた時、まさに神の領域に片足をつっこむのかもしれません。
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